プロフィール

 

初めまして。

 

岸洋介と申します。

 

プロフィールページを開いていただきましてありがとうございます。

 

私は、自己表現に苦しむ方々への支援をライフワークとしています。

私のプログラムでは、コミュニケーションの技術や起業に必要な戦略の構築方法もお伝えしています(詳しくは姉妹ページをご覧ください)。

一般的なトレーニングとは異なり、私は単なる「やり方」を教えるのではなく、個々の内面と向き合い、その困難を乗り越えるための深い洞察を提供します。

なぜなら、私がサポートする方々は、自己を表現すること自体が一大事業であり、一般的なアプローチでは解決しがたいからです。

多くの人々にとって、標準的なサービスが十分機能するかもしれません。

しかし、自己を解放できずにいる人々にとっては、行動に移るまでの障壁がとても高く、「方法を教えるだけ」では十分な成果が得られません。

私は、その人々が自分自身との調和を図りながら実践していく過程を大切にしています。

 

私自身も、学生時代にいじめられた経験や、社会人としての困難を経て、自己表現の重要性を学びました。

そしてある時、意識と行動を変えることで、かつての自分では想像もつかないような新しい世界が開けました。

この経験から、私は自分と同じような困難を抱える人々にたいして、自己を解放する手助けをすることを決意しました。

最終的に、自己を解放することは、自分自身だけでなく、周囲の世界をも変える力があることを実感しています。

このパワフルな変容を共有し、もっと多くの人々が自分自身を表現できるようになることを願っています。

 

いかに私の半生をしるします。長いですが、良かったらお読みになってください。

 

自分をさらけだせない日常

子どもの頃は、苦しかったです。生きづらさがありました。

色で言えば黒に限りなく近いグレーです。

生まれは北関東で、小学校2年のときに埼玉県に引っ越しました。

埼玉の小学校ではあまりいい思い出がありません。

なぜまわりに目をつけられたのかはわかりませんが、からかわれることが多かった気がします。

考えられる理由は、こんなこと。

 

・2、3歳のころに怪我した骨折の影響で、右腕が曲がっていたから。

・目が悪くてメガネをかけていたから。メガネザルとか言われました。

 

『 楽しいことは、あったのかな?』っていうくらい、このころのことはほとんど覚えていないので、正直なところはわかりません。

でも、からかわれるのが嫌で、自分をさらけ出せずに、目立たないように目立たないように振る舞っていました。

 

友達もいないし夢もない

からかいが、いじめに変わったのは小学校6年のときです。

 

下校時につばを吐きかけられたり、図工の作品を隣の教室のゴミ箱に捨てられたりしました。

いじめられて、ほぼまいにち学校で泣いてました。

なので、からかわれていたときよりももっと、自分をさらけだすことなんてできずに自分の殻にとじこもっていました。

心から悩みを打ち明けられる友達もいませんでした。

こんな日常ですから、まいにちがつまらないですし、夢もありませんでした。

 

 

夢といえば思い出したことがあります。

小学校の時に卒業文集で将来の夢を書くというのがありました。

まわりのクラスメイトがサッカー選手、プロ野球選手、パイロット、花屋さん、お嫁さんだの色々書いていました。

「 いいなー。夢があって。」

すごくうらやましかった。だって自分には夢なんてなかったから。

「 どーせ、中学、高校、大学っていって会社に勤めて60歳の定年であとは余暇を過ごして一生が終わるんでしょ?夢なんて・・。なんでこんなこと書かせるんだろう? 」

すると、一つ後ろのMくんが間違えて私の欄に「内緒」って書いたんです。どうせ書くものないから、これでいいや、と思ってそのまま出したんです。でも、担任から「なにか書け。なしもダメだ」と怒られ書き直しを命じられました。

で、けっきょく書いたのが、

「会社員」

です。

まともな夢がないことも、考えてもさっぱり思いつかないこともみじめな気持ちでした。

 

部活動でいじめ

中学に入れば、いじめはなくなると期待したのも束の間。

こんどは同じ部活動の人たちから、いじめを受けました。部活は野球部でした。きっかけは些細なことでした。運動靴にわざと切り込みを入れて新しい靴を買ったのだろうと噂になり1年生の一部の部員からシカトされました。

消えたくなるくらいのどうしようもない孤独感がありました。

部活は1年で辞めて、2年からべつの運動部に入りました。でも中学にいるあいだはずっと最初の部活のメンバーがいるところにはいかないように逃げ回っていました。

 

自分をさらけ出さない。

目立たないようにする。

 

それが自分の処世術になりました。

目立つのはうんざり

大人になってからも傾向は変わりませんでした。自分をみせない、です。

まわりの集団はいつ自分を標的にするかわからない。だったら、集団原理がはたらくような場所にはできるだけいかないようにする。

いかなければ、自分をさらけだすような場面にはであいませんから。

それで、飲み会は基本、行きませんでした。集団の中でからかわれたり吊し上げられたりするのは絶対いやなので、何があるかわからないよく知らない集団の中に行くのはたいてい断ってました。でも、断る、という行為も、できなくて、たいてい、曖昧に「いけたら行きます」という返事をしてました。そして行かない。

 

就職、転職。

就職して、いちばん怖かったのが、電話です。

人前で電話をかけることも受けることも嫌いで、周りの人が聞いていると思うと、緊張してしまってうまく話せないんです。

 

でも、最初の会社では、他人の前で電話をしないですむようにできたので何とかなっていました。

大学卒業後に入った製版会社(印刷の工程の一部です)では主にルート営業を担当したんです。

会社のなかでの営業の人数も数人と少なく、事務所で一人になれる時間も多かったですし、会社から携帯も持たされていたので、営業車のなかで話したりすることも簡単にできました。

だから周りに人がいる環境で話さないでも済んだんです。大丈夫だったんです。

でも、3年勤めた後、「印刷全般を見てみたい」と転職した会社では思うようにいきませんでした。

 

いってみれば、「さらけだし」を迫られたんです。

転職した会社は、営業所で、だだっ広いワンフロアでした。そこに営業、事務の人たちも含めて15人ほどがいました。一人一人を区切るような衝立などもちろんなく、ひとりきりで電話するための場所もありません。15人みんなの前で電話をしなければなりません。そうなると、一大決心をしてからじゃないと電話をかけられません。できなくはないけど、いつでもぎこちなく異様に緊張していました。

「はい、丸丸会社でございます」

という電話の挨拶でさえ、周りの人が聞いていると思うと緊張して声がうわずってかすれてしまうんです。

自分にかかってきた電話も、同じです。めちゃめちゃストレスでした。

こんな感じでストレスがたまりつづけ、営業成績もだんだん下がっていきました。

そして。

キミは人間の資格がない

この2社目の会社では、週に1度、月曜の朝に営業会議があったんです。

会議は、営業所長が場を仕切り、営業成績が悪い社員をひとり決めて会議中ずっと口撃しつづける、ということを繰り返していました。

ひとりをターゲットにすると数ヶ月続きます。

私と同時期に入った中途入社社員(大量雇用だったんです)がひとり、またひとりと彼の毒牙⁈にかかり、辞めていきました。

私の営業成績も下がる一方だったので、ついにきてしまいました。

毎回

「なんで岸くんは売り上げ上がんないのや?」

営業成績が悪いことを理由にねちねち言葉攻めを30分以上くらいつづける会議が1ヶ月くらい続いたころ、です。

「キミは人間の資格がないんやないかね」

となじられました。

この言葉がキッカケだったのか、気力がなくなりました。

朝、通勤電車に飛び込んだら気が楽になるのではと思ったこともありました。

ふだんの日常生活もまともにこなせなくなり、ペンを持って書類に一文字書くことすらだるく感じてしまうまでになりました。

結局、病院に行くとうつと診断されて会社を辞めました。

 

 

小さな会社に入社

半年ほどしてうつから回復していくと、今後のことを考え始めました。

そこで、数字がわかる営業になったらいいのではと考え、簿記と(その後税理士試験)、パソコンも購入し、学んでいきました。

 

毎日、専門学校の自習室に通う大学受験生のような生活を2年ほどつづけたあるとき、

「クライアントの会社が若い経理マンを探しているので、受けてみない?」

公認会計士をしている叔父の紹介で就職できることになったんです。

 

そして、社長との面接を経て、経理社員として入社することになりました。

会社は都内の和菓子屋さんでした。

当時店舗を拡大していて、若い経理社員が欲しいということでした。

 

経理は、本店(本社)のそばに事務所を借りていて、経理だけの部署でした。

以前いた会社で経験した営業も自分で組み立てられる面白さがありましたが、経理も面白い仕事でした。数字が合う喜び、数字を作っていく喜びがあるんです。

経理という学問の面白さは、専門学校で感じていたので、お金をいただきながら、経理の実務経験を積める!

入社したのは2000年です。インターネットが普及して数年経ったころです。

会社は、まだ紙ベースで昔ながらの仕事をしていました。ちょっと驚きました。

経理は、60代と70代のパート女性2名で仕事を回していました。会社は、ちょうど商業施設の店舗を年2店舗ペースで増やしはじめたころで、業務量もどんどん増えている状況だったんです。

環境も、じぶんをさらけださなくてもほぼ大丈夫でした。同じ立場の社員は経理にいないし、パートさんはご高齢だし。

儲かる会社にしたい

3社めでの、仕事は、楽しかったです。自分をからかう人はまわりにいないし、仕事は自分のペースで進められます。

ただ一つ問題があったんです。それは自分のことではなく、会社のことです。

会社の業績は、良い時がちょびっと黒字。油断するとすぐどかっと赤字になる。

この繰り返しでした。これを黒字にしたかった。なぜかというと、大変なのは支払いのやりくりをする経理だったからです。

なので、なんども社長に数字をもとに進言しました。

「実際に経営を切り盛りしている社長に進言するなんておこがましい・・」

初めはドキドキしながらでした。繰り返し会社の現状、懸念点などを伝え続けました。

でもなかなか会社の現状は変わらない。

成功している会社とは?

そんなときある本に、「会社は社長しだい」と書いてあったんです。

「誰か別の人を社長に据えたらうまくいくのでは?社長の奥様や子どもたちをすえたらどうか」

こんなふうに考えはじめるようになりました。(←クーデターぽいですよね?)

もちろん、考えただけで、なにも実行には移していません。

「なんとかしたい。なんとかして会社を良くしたい。」

こう思いながら仕事をしていました。

ひそかな「夢」

話はすこし変わりますが、小学校の文集には書かなかった、ちいさな夢がありました。

それは、

「自分の子どもとキャッチボールすること」

でした。

こどものころに「銀河鉄道999」というアニメがありました。

主人公の少年星野鉄郎に機械伯爵となった父が諭します。

「機械の体を手に入れて永遠に生きることが永遠の命じゃない、子供に命を繋ぐこと。それが永遠の命だ!」

「これだ!いのちを子どもに繋いでいくこと。」これが密かな夢でした。

3社目に就職して5年ほどで結婚をすることができました。

夫婦共に仕事が忙しかったので、こどもをつくるためにいわゆる妊活をしました。

夢やぶれる

でも。自分には、子どもができないことがわかったんです。

病院の先生から聞いた時は、病院で、人目もはばからず泣きました。

そのあとぽっかりとあいた心の中からこんな質問が湧き上がってきたんです。

「君は、夢もなにもない人生をこれから生きていくのかい?」

答えは、決まっていました。

「それはいやだ」

だったら、人生を変えよう。と決意しました。

こうして現実が変わりました

どうすればいいのかはわかりませんでしたが、まず行動を変えようと思いました。変えるために無理やり考え方を変えました。

つまり、「前向きになる」です。

舞い込んできた話は、とりあえず、「はい」と言おう。

はい、と言ってから、できるかどうか考える。

飲み会も「行けたらいく」ではなく映画の『イエスマン』のように、「ハイ、いきます!」に変える。

もうひとつは、言葉を変えたこと。

前向きな言葉だけを使うようにする。

これは、中村天風著「成功の実現」で学びました。

 

 

実践し始めてしばらくすると、現実が変わり始めました!

ほんとうに世界の色がビビッドに鮮やかになったんです。

自分のまわりを取りまく人々は変わってないのに、話しかけられる言葉が変わったり、自分の感情の動きも積極的になったりだんだん見える世界が変わってきたんです。

店舗の人たちを笑顔にしたい

このころ、経理責任者として毎月の営業会議に呼ばれていました。

店舗別の資料をつくって、各店長にくばり、過去の実績をふりかえり未来につなげる手助けを数字の観点からサポートする。

このころの目的は会社の黒字化です。でも自分が頑張るというよりは、会社の数字を作っている人たちに頑張ってもらわなきゃなりません。

実際に店舗で売っている店長をはじめとした販売員が頑張ってくれてはじめて達成できます。

なので彼らのモチベーションが大事だろうと考えました。

でもふと、周りの店長たちを見ると、社内中に恐れられていた営業部長の言葉に戦々恐々としながら対応していました。

気になって店舗の様子を見に行くとお店の販売員の多くがつまらなそうに仕事していました。

 

『 せっかく1日の大半を使って仕事しているなら、いい気分でいたほうが良いよね? 』

『 販売員が楽しく仕事すれば、会社全体も良くなって利益もついてくるんじゃないか?

一石二鳥じゃん。』

こんなふうに思うようになっていきました。

北風と太陽

数年して、かの営業部長が退職しました。

あなたは、北風と太陽というお話し知ってますよね?

彼のやり方は、北風のやり方にみえました。

そのポストに空きができたんです。商業施設との折衝もあるから、誰かがやらなければいけない仕事です。

すると、社長が私のところにやってきて、

「岸、前の会社で営業やってたろ?営業部長を兼務してくれないか?」

「はい、やります!」

経理と営業の兼任が決まりました。

経理専任のころからの会社での目標、会社を利益が出せる会社にすることと、もうひとつは、販売員を笑顔にすること。この二つが叶うかもしれないとこのオファーにワクワクしていました。

まえの彼が北風なら、私は太陽でやるぞ。と決めました。

欲しい現実を手に入れる方法

経理と営業の責任者の二足の草鞋を履くことになり、2枚の部長の名刺が出来上がったころ、懇意にしていた保険の営業マンが来社しました。

「岸さん、おめでとうございます。

 経理と営業を取れたのなら、次は、社長ですね? 」

!!

ガツンとハンマーで頭を殴られた気がしました。

いままではいまの社長の代わりを誰か立てなきゃって思っていたけど、そうじゃない。自分がやるって決めればいいんだ。できるかどうかはわからないし、なれるかどうかもわからない。でも、決めることはできるはず。

そこで、「社長になる」と決めました。

それからは、社長になったつもりで仕事をしていきました。ひとつひとつの仕事について「僕が社長ならどう判断する?」と自問自答しながらです。もちろん重要な案件は、現実の社長にお伺いをたてながら行いました。

会社の業績を良くするため、従業員が笑顔で働ける職場にするため、それまで以上に仕事に打ち込みました。

 

午前中は催事で販売をこなし、午後は事務所に戻って給料計算をする。

銀行に呼ばれれば、試算表を作ってかけつける。

お店で人間関係のトラブルがあれば、いって納得いくまで話し合いをこなす。

毎月1回は首都圏にちらばっている全10店舗をまわり店長と直接ヒアリングをする。

 

そして、社長になると決めて3ヶ月ほど経ったころ、またふらりと社長が事務所にやってきました。

「岸、社長やる気ある?」

「機会があればやらせてください!」

自分のレールで生きる

2年後に念願の社長になりましたが、

思うような成果は得られませんでした。

 

2年で社長職を辞しました。

 

あなたはこんな疑問を持ったかもしれません。

「なぜ社長まで経験した会社をやめようと思ったのか?」

「もったいない」

これは、実際に人から言われました。

 

答えは、「他人のレールで生きるのはもうやめよう」と 思ったからです。

 

私は、社長とはいっても代表取締役ではありませんでした。いわゆる雇われ社長です。なので、最終的な権限はありません。

『 もし代表とゴールが同じじゃないのなら、彼のレールで自分の列車を走らせるのは、違うんじゃないか? 』

 

それなら、

『 自分のレールをつくって、もっと広い世界で、より多くの人々を笑顔にしたい 』

と思ったからです。

 

それと、

会社にいたころは、さらけだしをするための、心のケアをまだ十分にしていませんでした。

なので、走ってはたちどまり、また走ってはたちどまりを繰り返していました。

なので、すぐに心が辛くなることが多かったです。

 

 

 

独立後は、カウンセラーとして心の勉強を実践したことで、

さらけだすためのもうひとつのピースを見つけることができました。

 

最後に

私は、自分をさらけだすことをきめたことで、人生がガラリと変わりました。

20代の頃、「きみは人間の資格がない」と言われてうつになりましたが、その後、中途入社で先輩社員を飛び越えて社長にまでなることができたんです。

行動は無駄にはなりません。過去の経験は、どこかで必ず役に立ちます。

もちろん、いまでも周りに自分をさらけ出すのが得意ではありません。

3社目の会社で営業責任者や社長というたくさんの人を動かす立場になったことで、自分が関わった他人が変わる喜びが自分で何かを達成した時の何倍、何十倍も大きいことを知りました。

なので、もしあなたが、自分をさらけ出せずに悩んでいて、それを変えたいと思っているなら、自分をさらけだして、笑顔になって欲しいと思っています。

そのためのお手伝いがしたいです。私の経験が役に立つならこの上ない喜びです。

 

さらけだせなくてもんもんとしている人が

笑顔に変わり、人生を謳歌できるように。

私は努力を惜しみません。一緒に笑顔になりましょう。伴走していきます。

以上が私のプロフィールです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

岸洋介